蝉と黒ギャル

蝉と黒ギャル

夏の気まぐれな号泣が止み、再び蝉が騒ぎ出した。見えない煙のように立ち上がる蜃気楼のなかで、彼女は蝉の大量発生のニュースを思い出す。
十三夏とみかというのが、彼女に与えられた名前だった。おもちゃみたいな名前、そして、名前の通りおもちゃみたいな人生だった。乱雑に仕舞われたおもちゃ箱のなか、それが学校生活、ひいては社会に対して十三夏の抱いている印象だった。その認識は重苦しく、常に彼女の生活にまとわりついていた。
高校に進学した彼女は、そんな環境から離脱を図った。
周囲の大人達は、彼女の年頃にはよくあることだと言って、表面的な指導こそ試みるものの、それ以上踏み込んでくることはない。
彼らは、分散した事象を同一なものとして扱うことで問題をパターン化し、直接見つめることをしなかった。
しかし、その癖、しつこい。十三夏は、そうした大人たちによる干渉を、客観視というアブレータで受け止めていた。時間は融解するが、少なくとも内部は守られている。ただ、それもバイトを始めるまでのことだったが。

「君さー、やっぱり派手すぎるよ。客から本社にクレーム入っちゃってさ、何とかなんない? その髪色とか……、悪いけど、染め直す気ないんだったら辞めてもらうから……」

 バイトをクビになったのは、今日で四度目だった。
 延々と続いた説教のせいで、もう日が傾いていた。帰り道で傘を持たずに夕立に降られた十三夏は、バス停で雨宿りをしていた。ベンチのない、割れた地面から錆びた赤い停車時刻表が生えているようなバス停だ。
 十三夏はその場にしゃがみ込むと、時刻表の左右に伸びる、背の低い植え込みを覗き込んで時間をつぶした。
 世界が傾いた先に、雨に濡れた枝にしがみつくセミの抜け殻があった。
 天敵から身を守るために、こうして異なる生活の層に身を隠しているわけだ。似たような抜け殻を幾つも見つけることができた。
「何をしているの?」
 振り向くと少女と目があった。
 まだ、小学生だろう。ずっと感じていた視線は、おそらく彼女のものだ。
「これ」十三夏は立ち上がって抜け殻を見せた。「集めてるの」
「集めてどうするの?」
「持ち帰って、リビングのカーテンに飾る予定」
「それ、面白い?」
「誰にとって?」
「あなた」
「うーん、どうかな。あまり、おもしろくはないと思う」
「中身がないのね」少女が近寄り、十三夏の手の中から抜け殻をひとつつまみ上げて言う。「どうして?」
「中身がいたら、持ち帰れないでしょう」
「殻に興味があるのね」
「そう……、ちょっと、似てるよね」
「何に?」
「それは、色々。ほら、バスが来たよ」

 十三夏が言った。
 登り坂の向こうに、雨に濡れて夕陽と街並みを反射するバスの鼻先が現れた。

「待ってたんでしょう?」
「言いたくないのね。可笑しい。まるで子供みたい」
 少女が抜け殻を十三夏に返却する。バスのステップに身軽に飛び乗ると、こちらを振り返って、閉じた傘を持つ反対の手を小さく振った。「またね」

 バスが鋭く息を吐いて動き出す。
 頭の回転の早い子だった。
 弟みたいに。
 またねとはなんだろう?
 十三夏がそんなことを考えている間に、バスは水を跳ね上げながら走り去っていった。


「やだちょっとォ……、また増えてない?」
 母の七夏は、数を増やし続けている蝉の抜け殻に眉を寄せるとそう言った。
 リビングの白いレースのカーテンには、十三夏の集めてきた蝉の抜け殻がすでに整然と並んでいる。
「まあ、どうせ、いまのうちね。そのうち、触れなくなるんだから」
「それ、七夏ちゃんの実体験?」
 十三夏は、キッチンカウンターの向かい側で両手で頬杖をついて言った。
「みんな、そういう感じだよ。急にダメになるの。幼虫も成虫も全部、ダメって。急にね。そんなことよりさ、十三夏ちゃん、新しいバイト先見つかった? お小遣いの増額、もうしないからね」
 十三夏は盛大にため息を吐くと、キッチンカウンターを離れてダイニングテーブルに腰を落ち着けた。
 向かいの席で調べ物をしていた弟の律が、分厚い本に顔を埋めながら言う。
「たぶん、形が完璧すぎるからだよ」
「聞いてたの?」
「読みながらでも、聞くことはできるよ」
「じゃあ訊くけど」十三夏が言った。「形が完璧だったことと、大人になると虫に触れなくなるのって、どう関係するわけ」
「僕らが虫を見たり触ったりすることにそれほど抵抗がないのは、たぶん、あまり物事を知らないからだよ。
 可愛いのか気色悪いのか、それが普通なのか異常なのか、比較対象を持っていないからね。そうだな……、例えば、僕らは道具を使わずに真っ直ぐな線を引けないし、塗り絵だって、線の通りに綺麗に塗り分けることは難しい。自分たちのそういった限界を知っていくと、昆虫とか小さい生き物の、異常なまでの緻密なデザインが、ダメになるんだよ」
「すごい。たしかにそうかも……」
「年の功ってやつ」
「律くん、あたしより歳下なのに?」
「そう、僕の方が十三夏ちゃんより、歳下だから。成長による機能の洗練は、つまり、捨てることに等しいからね」
「どうして、父さんは大丈夫なんだろ」十三夏は話を戻した。「昔、よくオタマジャクシとか、捕まえてきたじゃない?」
「うーん……、どうしてだろうね」
 律は興味を失ったのか、再び厚い本に顔を埋める。十三夏は指を伸ばして剥がれかけたネイルを眺めた。
「なんの話?」白いタオルで両手をぬぐいながら、七夏がやってきた。
「父さんが、虫とか平気な理由」
「あぁ……」七夏は微笑んだ。「精神が子供なのよ、きっと」


ある日から、カーテンの蝉の抜け殻が減り始めた。犯人は弟の律だ。彼はこのところ、半透明なタッパに抜け殻を詰めて学校に持っていくようになった。抜け殻が、ある種の貨幣として機能しているようだ。給食の余剰分の争奪の交渉道具として役に立つようで、律は毎朝冷蔵庫の横に貼ってある給食表を確認すると、じっくりとその日の交換レートを予想し、それに見合った数をタッパに詰めて持っていく。こうした不可思議なブームは、十三夏が小学生のときにも、異なった形ではあるものの、存在していた。
これは、なんだろうか。そのときと同じで、決して良い気分ではない。
無許可の侵入と、泥だらけで乱雑に散らばった足跡のイメージ。

「十三夏ちゃんはすごいよ」律が、塾帰りに拾った蝉の抜け殻をカーテンに補充するために、背伸びをしながら言った。「僕も、クラスのみんなも、全然見つけられないのに」
「見つけてるじゃん」
「3つだけだけどね。変じゃない? 今年はこれだけ蝉が鳴いてるのに」
「叔父様の家の前を通ってみたら?」
「あっち、坂がきついし、暑いんだよ。直射日光が当たるから……」
「でも、みんなと一緒のところを探しても、見つからないよ」
「そういうもの?」
「うん」十三夏は頷いた。「たぶん、価値のある多くのものが、そうした規則を持っているんだと思う」
「十三夏ちゃんも、そうなの?」
「え?」十三夏は首を傾けた。
「十三夏ちゃん、高校に入ってから急に派手になったじゃん。そのせいでバイト、クビになったのにその格好止めないし。ずっと、どうしてか分からなかったんだけど……」
「そうね。でも、前人未到の地に働き口はないわ」十三夏は目を細めて微笑んだ。「それだけが残念」
「あ、バイト、まだ諦めてなかったんだね」
「そりゃそうよ。いろいろお金、掛かるもの」
「ちょっと意外」と律が笑った。

 父・紀の職場の繁忙期が終わり、彼が家から職場に通うようになると抜け殻の消費速度がさらに増加した。父が帰宅した夜遅く、ドアの隙間からリビングの明かりと、母親の七夏と低く抑えた父の声が入ってくる。
「紀くんからも、十三夏に言ってやってよ。いい加減、拾ってくるの辞めろって……」
「いやぁ、それは困るな……。ほら、俺、顔が怖いから、たぶん、蝉の抜け殻を作業着につけているくらいがちょうどいいんだよ。おかげで若いやつとも会話できるし」
 十三夏はベッドに横たわって、そんなやりとりを目を閉じてじっと聴いていた。
 寝返りを打つ。後毛が数本、十三夏の口元をくすぐった。彼女はそれを息で吹き飛ばした。くだらない話。眠気がやってきた。
 ふと、夕食で弟が言ったことを思い出す。
 セミの抜け殻はキチン質で構成されているらしい。
 カニの甲羅と同じ成分のそれは、ずいぶんと頑丈だという話だ。
 十三夏は、なぜ彼らがことごとく、この頑丈な鎧を脱ぎ捨ててしまうのか、理解ができなかった。
 脱ぎ捨てなければ、もう少し長く、この世界にしがみつくことができるのではないか?
 なぜ、進んで不安定になりたがるのだろう。
 生き物は、どうして死のうとするのだろうか。
 わからない。
 触れたいから?
 触って、ほかの個体のぬくもりを感じ、自分のコピーを遺したいからだろうか。
 それなら、たしかに、殻があっては不都合だ。
 子供を作るには、接触しなければならないから。
 そう……、
 触れることと、死ぬことは同じだ。
 みんな、死にたいのだ。
 すっかり死んでしまって、
 そうすることで、自由になれると信じている。
 それは、たしかに最後の実践であるけれど、
 しかし、ひとつの実践にすぎない。
 だって、
 死んだ後になって、自由になったことを、どうやって確かめる?
 でも、みんな、それができると信じ込んでいる。
 誰もが、意味のないものに意味を見出そうとしていた。
 父親も弟も。
 わからないものをわからないままにして置けない人たち。
 そんな人たちが、なんと多いことだろう。
 その人たちのせいで、あらゆるものが経済や生活に還元されてしまう。
 ファッションで差別化を図ろうとする意思もまた、経済や生活の形式のひとつとして解釈されてしまう。
 売りつけてやろうか、という考えが十三夏に飛来した。抜け殻を全部。誰かに価値を見出されたものを、彼女自身の手元に置いておく理由がなかった。だったら、必要としている人に渡してしまったほうがいいだろう。
 そんなことを考えているうちに、やがて十三夏は眠りに落ちた。
 リビングからセミの抜け殻が消えたのは、その翌朝のことだった。


十三夏は、部屋に駆け込んできた律から、事のあらましを聞いた。彼がやってきたのは、彼女がセットした目覚ましが鳴るよりも早い時間だった。彼がこうして無断で十三夏の部屋に立ち入るのは、事件性がある、よっぽどのときだ。
「母さんだよ、絶対。今日の燃えるゴミで捨てたんだ」
 律の目の渕が赤くなっていることに十三夏は気がついた。
「驚いた……。泣いたのね」
「泣いてない」
「嘘。どうして、泣いたの?」
「大切にしていたものを捨てられたら、誰だって怒るよ」
「それは、あなたのものだった?」十三夏は、律の頭を撫でた。「執着してるわね。それに、他人に期待も……。気づいてる?」
「十三夏ちゃんだって、そうだろ……」
「それは、層の異なる問題ね。私は自分の意思でいまのあり方を選んでるもの。それを、どう解釈するかは他人の、客観的な問題。律くんは、いま後者の立場ね」
 三秒ほどの沈黙。それからエンジンが止まったときのような、大きなため息。
「わかってるよ。わかってる。悪かったよ、こんな朝早くから……。ただ、伝えなきゃと思ったんだ。十三夏ちゃんの大切なものでもあるんだし」
「大丈夫。あれにはもう、価値はないわ。それに、もとから、私のものではありません」十三夏は微笑んだ。「でも、ありがとう」
 それから部屋から出て行こうとした律を、十三夏は呼び止めた。
「父さん、怒ってた?」
「もう仕事に行ったけど……。ちょっと残念そうにはしてたよ。でも怒ってはなかったと思う」
「そう……、ありがとう」


 みんなが寝静まった頃を見計らって、十三夏はベッドから起き上がった。
 後輩の渚から、メッセージが1件。外でバイクがアイドリングする音が、ちょうど消えたところだった。約束通り、到着したようだ。十三夏は上着を羽織ってそっと部屋を出た。リビングの置き時計は、とっくに日付をまたいでいた。もう数時間もすれば、陽が昇るだろう。
 照明の消えたリビングは、ひっそりと静まり帰っていて、昨晩の晩餐のにおいがまだ僅かに残っていた。そのまましばらく、藍色のなかで十三夏はじっと立ち尽くした。誰も、起きてくる気配はない。
 十三夏は急いで自室に戻り、収納の引き戸を開ける。
 制服や私服、抜け殻となって吊り下げられた布を掻き分ける。
 その奥には、ロングブーツを購入したときの空き箱があった。十三夏は、空き箱を両手で抱えると、再び部屋を出た。玄関で靴を履き、素早く外へ出る。甘い樹液のにおいと、生ぬるい夏の夜の空気が、彼女を取り巻いた。踊り場のコンクリートの壁には、明かりに集った甲虫や蛾が張り付いている。十三夏は階段を駆け下りた。
 渚は、やはりすでにアパートの正面に到着していた。彼女は十三夏を視認すると、ふわりとバイクから飛び降りた。
「こんな時間に悪いね」
「それが例のブツ?」渚が十三夏の手元を見て言う。
 十三夏は頷いて、空き箱を渡した。渚は受け取ると、蓋をずらして、恐るおそる中を覗き込んだ。「うへぇ……」
「どう?」
「数は十分」渚は元どおりに蓋をすると、ジャンパのポケットから厚い封筒を取り出した。「これ、結構多いんですけど、ビビんないでくださいね」
 十三夏は、渚の手から封筒を受け取った。
 アパート入口の照明が乾いた音を立てて明滅を繰り返している。十三夏はその明かりに封筒を透かしてみたが、まったく光を通さなかった。
「これ、いくら?」
「5万」
「い!?」十三夏は目を丸くして封筒を見つめた。「5万……。蝉の抜け殻で、5万……」
「蝉の抜け殻って、問屋に下ろすといい値段で売れるんですよ。なので、昨日、先輩から話をもらった後に、おばあちゃんに頼んだんです。うち、漢方薬局やってるんで」
「そう……、いや、まあ、これだけもらえるなら、あたしとしても願ってもない話だけど」
「それで、先輩、バイト先探してるって聞いたんですけど」渚が、荷台に蝉の抜け殻が詰まった箱を縛りながら言う。
「え、まあ、そうだけど」
「先輩さえ良ければなんですけど、うちの祖母の店でバイトしません?」
「……どこから、あたしがバイト探してるって聞きつけたのよ」
「妹です。碧っていうんですけど……、あ、碧は先輩の弟から聞いたみたいです。律くんでしたっけ」
 思わぬ話になった、と十三夏は思った。しかし、同時に、ありがたい話だった。雇われたすぐあとで、クビにならなければの話だが……。
「安心してください。雇用にあたり、外見や信条、門地、いずれも問わないそうです」渚は面白がるように言った。「だから、先輩みたいな人でも、そのままで大丈夫です」
「余計な御世話よ。……でも、お願い」十三夏は腕を組んだまま頼んだ。「もう一度、いまのままでやってみたい」


 バイト用のエプロンは落ち着いた深紅の色で、制服に合わせると、苦手だった制服が少しだけマシになった。新しいアルバイト先の漢方薬局は、渚の祖母がやっている個人経営の小さなお店で、学校帰りによく見かける通りに面した明るい木造建造物だった。エアコンの利きはあまり良くなかったが、バイトするのが夕方であること、それからもう秋になることを思えば、そこまで深刻な問題ではない。
 客が来ると、専門的な対応や常連客との雑談は渚の祖母に任せて、十三夏はもっぱら商品の補充と棚卸をやる。休日のシフトがメインだったが、今日のように平日の夕方に数時間だけ入ることもあった。すでに、軒先より深く沈んだ夕陽が店のなかに複雑な影をつくっていた。
「店、締めちゃうから、今日はもうあがりなさい」
 最後の客が立ち去ると、渚の祖母がそう言った。
「あ、はい。じゃあ、裏で棚卸をしてから、そうします」
 十三夏は頷いて、店舗を母屋の方へと進んだ。数段の階段があって、その先が渚たちが住む家だ。その左右に、陳列を待つ商品が段ボールに詰まって並んでいる。彼女は数量を確認し、手元のリストに記録していった。
「十三夏さん」声の方に顔を上げると、母屋の入り口に少女がこちらを向いて立っていた。
「あ、バス停の……」
「碧といいます。久しぶりね」それから碧は、十三夏の格好を見て口元を緩めた。「相変わらず、派手な格好。……祖母の手伝いは続けられそう?」
「ええ、渚とあなたのおかげね」
「よかった。あなたが抜け殻を売ったこと、律くんには黙っておいてあげます」碧は内緒話をするように早口で言うと、片目を閉じた。「彼も今日、来てるの。いまは自転車を停めに行ってるけれど……」
「あ、十三夏ちゃんだ」ちょうど、律が母屋の玄関からやってきた。「ほらね、碧。やっぱり、心配することなかったじゃん」
「別に、心配なんかしてないわ。彼女なら、きちんとやれるでしょう」
「ありがとね、律くんも碧ちゃんも、色々……」
「私にお礼は必要ありません。それは、選択することが、必ずしも捨てることではないとわかったからです。これから大人になるわたしたちにとって、それは、非常に価値のあることです」
「そうかもね」十三夏は頷いた。
「あなたという人物に逢えてよかった。行こう、律くん」
 それから律の手を引いて、家の奥に去って行く。
 律が慌てて十三夏を振り返った。
「十三夏ちゃん、今日、これであがり?」
「うん、もう帰るよ」
「じゃあ、悪いけど遅くなるって伝えといて」
「いいよ、わかった」
「春だねぇ」店じまいを終えた渚と碧の祖母が背後で呟いた。
「もう、秋ですけどね」十三夏は言った。
 その帰り道、十三夏はアパートの入り口の植え込みに、夏の間、誰にも見つけられることがなかった抜け殻を見つけた。
 彼女はそれを拾う。
 今度はカーテンにつけることも、売ることもしない。
 彼女は引き出しのなかに、そっとそれを仕舞い込んだ。


執筆者Sig.
麻雀結果瀞昧幹 71200  にゃおぽぬ 64800
Sig 43400 kabao 20600
規定文字数2140文字(2-3位 21400点差)
お題にゃおぽぬ:黒ギャル達観ヤンキーによる思索

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