金魚の遊戯

金魚の遊戯

 外の空気は朝露に濡れた植物の匂いがした。僕は店の裏口から外に出て、いつもの軒下で煙草を吸う。
 郵便配達のバイクがどこかの路地で音を立てて走りだした。ようやく街が目覚め始めたみたいだ。二車線の通りに車の往来はまだない。ランニングしている人が通り過ぎていっただけで、それ以外に人の往来もなかった。
 夜中に激しい雨が降ったせいか、もう6月になるというのに外は寒かった。風が吹いて、僕はたまらずウインドブレーカーのファスナを首元まで上げた。女の子なんだから暖かくしなくちゃって、先輩から貸してもらったやつだ。煙草の匂いがつかないように、煙草を挟んだ手と反対の綺麗な手で匂いを払う。
 僕はポケットに両手を突っ込んで温めた。いつかのレシートと釣り銭、くしゃくしゃに丸まった求人広告のビラ、僕はその中から手探りで煙草の箱を探り当てて取り出す。それが最後の1本だった。僕は空き箱をポケットの中で握り潰した。ぐるりとあたりを見渡したけれど、ゴミ箱はどこにもなかった。近頃は喫煙所もゴミ箱も減る一方だ。
 ライターを取り出したとき、裏口に人の気配がした。僕は前かがみになって様子を伺う。
 郡上先輩だった。開けっ放しの従業員出入り口で靴の踵を直している。僕は煙草に火をつけるのをやめた。
 七瀬、と先輩が僕の名前を呼ぶ。
「やっぱりここにいた」
「タクシーなら死んでますよ」僕は火の点いていない煙草を咥えたままモゴモゴ言う。「駅まで行かないと」
「よし、じゃあ、歩こう」
「正気ですか」僕は呆れて聞く。「どこまで?」
「寮まで。始発まで時間あるし」
「1時間はかかりますよ」
「始発が動くまで凍えてるつもりなら、どうぞお好きに」
 僕はため息を吐く。
 ここでじっとしていると凍えるのは事実だ。けれど、店の中に戻るつもりもない。辞表を出してから1ヶ月、ようやくおさらばできる。
 iPhoneを見る。朝の4時30分。確かに始発を待つよりは早く帰れるかもしれない。
 残バッテリー量は30%。僕はSpotifyを閉じてイヤフォンを耳から外した。 
 その間に郡上先輩はすたすた歩き出している。僕は駆け足でその背中を追いかける。
 僕らはしばらく黙ったまま歩き続けた。バイト終わりはいつもこんな感じだ。終電までに帰るときの電車でも会話があるほうが稀だ。1日中一緒にいると、会話のほとんどを消化しきってしまう。
「七瀬、何かあった?」
 突然、郡上先輩が僕の顔を覗き込んで言った。
「え?」
「浮かない顔してる」
「そうかな」僕は首を傾げた。「そんなつもりないけど」
「バイト辞めること、後悔してる?」
「まさか」僕はすぐに答える。「全然そんなことない」
「君が辞めるってなって、みんな寂しがってるよ」郡上先輩は息を漏らした。「もちろん私もね。今日だって君の送別会だっていうのに先にいなくなっちゃうから、みんな代わりに私を捕まえて大変だった」
「あぁ、だから遅かったんだ」
「他人事だなぁ」
「あいつら、騒げればなんでもいいんですよ」
「そんなことないよ。みんな心配してるんだって」
「どうかな」
 僕らは昨晩の雨で水かさの増した街中の小川沿いを歩く。いつもは生活排水が流れているけれど、雨が汚れを希薄して、濁っているのにむしろ清潔な気がする。
「ねえ」郡上先輩が増水した流れに目をやりながら言う。「やっぱり、教えてくれないかな。君がバイト辞める理由。私、なんかしちゃったかな」
「先輩のせいなんかじゃないです」僕は真面目な声音を作って言う。「社会から降りたいんですよね」
「降りた先にあるのも社会だよ」先輩はちょっぴり呆れたように笑って言う。「うん、でも、ちょっと安心した。いつもの七瀬だ」
「いつもって何ですか……」
 煙草が吸いたくなって、僕はウインドブレーカーのポケットを探った。あるのは潰れた箱だけだ。さっきの一本が最後だったことをすっかり忘れていた。それでも、中身が入っていないか念のため耳元で振って確かめてみる。
「ずっとそれ?」
「え?」
「煙草」
「ああ、うん」
「銘柄、変えたりしないの?」
「変える?」僕は聞き返した。「なんで?」
「飽きたりしないのかなって」
「ううん」僕は少し考えて言う。「変化がストレスになって早死にする動物っているじゃないですか。わたしってたぶん、それの近縁種なんですよ」
「あぁ、マンボウとか」
「ウサギです」僕は郡上先輩を睨みつける。「わたし、近縁種って言いましたよね」
「なんだっていいけどさ」郡上先輩は呆れた様子で僕の前を歩く。「君、結局一度だって私と麻雀やってくれなかったよね」
「そうでしたっけ」
「そうだよ」先輩はきっぱり言い切る。「せっかく、君が雀荘カフェでバイトするって言うから通い詰めたのにさ」
 悪いと思ってます、と僕はとりあえず謝る。そうすれば、先輩はそれ以上の追求をやめることを、僕は知っている。
 雀荘カフェをバイト先に選んだのは大学に近いからって理由だけ。そう言ったら先輩は怒るだろうか。
 僕は麻雀が好きじゃない。麻雀だけじゃなくて、トランプやジャンケンに至るまで、あらゆる勝負事が嫌いだ。
 そうした遊戯には大なり小なり必ず勝つ人がいて、負ける人がいる。たまにその酩酊に魅了されてしまう人間がいるけれど、僕はそうはなりたくない。
 このことを考えるとき、僕は決まって父親のことを思い出してしまう。賭け事ばかりしていて、あまり家にいなかった父のこと。
 あれは僕がまだ幼かったころのことだ。生活の授業でもらった数匹のメダカを飼っていたことがある。珍しく家に帰ってきた父がどこかでもらってきた金魚を持ち込んで、僕が眠っている間に水槽のなかに放したことがあった。
 目が覚めたときにはメダカは1匹もいなくなっていて、血のように真っ赤な金魚が水槽を孤独にゆらゆらと漂っていた。
 僕はそれをきれいだって思った。けれど、そう思った自分が怖くて、僕はひどく泣きじゃくった。その日のうちに父はまたメダカを買ってきたけど、僕はメダカがいなくなったことが悲しくて泣いたわけじゃない。
 いまになって、あれも父の賭け事だったのかもしれない、と思うことがある。退屈な水槽に官能を見出そうと、生き残りを賭けた遊戯にするつもりだったのかもしれない、って。
「あ、ねぇ、七瀬」郡上先輩が黙ったわたしの肩をたたく。「あれ、見て。懐かしくない?」
 先輩が指差した先にはモルタル塗りの建屋の薬局があった。その軒先に子供ほどの大きさのカエルの置物が佇んでいる。
「私、生まれて初めてみたカエルがこいつだったんだ」先輩はカエルの頭を撫でながらそう言った。「色くらいじゃないかな、本物のカエルと似てるのって」
「これ、わたしの実家の近くにもいたな」
 近所の大型スーパーに併設された薬局の入り口にも、似たようなカエルがいたような気がする。
「うわぁ……」先輩は歓声をあげて両手を合わせた。
「急に何?」
「小さいころの七瀬、見たかったなぁ、って。カエルと一緒に撮った写真とかないの?」
「どうかな」思い出そうとして声の調子が少し落ちた。「覚えてない」
「思い出したくない?」
「たぶん」
「どうして?」
「あのころはいろいろと不完全だった」
「不完全?」先輩が首を傾げる。
「子供だったということ」僕は答えた。「どうしようもないことで泣いてばかりだった」
「いまもそう?」
「え?」
「君は、いまも不完全?」
「うん、たぶん」僕は少し考えて言った。「忘れたいことばっかりだよ」
「そっか」
 郡上先輩はひとしきりわたしの頭を撫でると、小さな革の鞄からiPhoneを取り出す。iPhone専用かって思うぐらい、冗談みたいに小さな鞄だった。
「じゃあ君、あのカエルの隣に並んで」
「じゃあって何……」
 先輩は抗議する僕の背中を問答無用で突き飛ばす。僕は咄嗟にカエルの頭部にしがみついた。
「何するんだよ!」
 僕のそんな姿を、先輩は悪びれもせずに写真に収める。
「消してくれ」僕は早足で先輩に駆け寄った。「写真撮られるの嫌いなんだ」
「知ってる」先輩はにっこり微笑んで僕のほうを見た。「見て。なんか平成の初めっぽいね」
「悪いと思ってないだろ……」僕は額に手を当てる。「それ、どうするつもり?」
「あとで送ってあげる」
「いらない!」僕は半ば叫ぶようにして先輩の申し出を断る。
「あなたは?」郡上先輩が僕越しに薬局の軒下のカエルに尋ねた。「写真。いる?」
「俺は携帯を持ってない」置物のカエルがまだ眠たそうな低い声で答えた。
「そっか」郡上先輩は首をわずかに傾けた。「それって退屈そうだね」
「何が?」カエルが聞き返す。
「そうやってずっと立ったまま過ごしているの?」
「そうだ」カエルは頷いて、それから僕を視界に捉える。「バイトを辞めたんだって?」
「聞いてたんですか」
「静かな朝だ、あれだけ騒いでいれば聞こえもするさ。それよりも教えてくれよ。君がバイトを辞めた理由」
「どうしてあんたに言わなきゃいけないわけ……」
「暇つぶしさ」
「暇つぶしって」僕は呆れながら言う。「別に、さっき言った通りですよ」
「社会から降りたい、というやつか。それでは答えになってない。それが本心なら、君は他人と関わること、すべてを諦めなければいけなくなる。隣の嬢ちゃんとの友情もしかり。たとえ俺のようにカエルの置物になったとしても、社会は俺に役割を与えようとする」
「どんな?」僕はたずねる。
「遊具、あるいは広告塔、センチメタルな気分に浸るための道具……こうした社会性というのは、往々にして他人に勝手に見出されてしまうものだ。つまり、いくら社会から切り離されたいと思っていても、案外周囲はそれを許してはくれない」
「わかってます」と僕は言う。
「では、何故?」
「勇気ある撤退なんですよ」と僕は観念して言う。「カエル界隈で有名なことわざがありますよね」
「井の中の蛙大海を知らず」カエルが即答する。
 僕は黙って頷く。
「井戸の中では食物連鎖の上位に位置しているかもしれませんが、外では立場が変わります。外部に進出した蛙は、蛇や鳥類といったより上位の補食者に怯えることになります。環境の変化とはすなわちリスクなんですよ。そこはすでに大蛇の口のなかかもしれない」
「しかし同時に、変化は有益だ」とカエルは言う。「俺が退屈しないのはそのおかげさ。この街の景色も人間も常に変化し続けている。今日君たちがここを通ったようにね」
「はい。しかし、重要なのは、オタマジャクシからカエルになる勇気がわたしにはないってことです。何かを変えようとして、自分が意図しないところまで変化してしまうことがありますね?」
「ふむ……」
 カエルが考え込んで黙ってしまったので、僕は先輩のほうを向いた。
「わたしが先輩と麻雀したくないのは、そういう理由です」
「勝敗で関係が崩れることが怖いということ?」
「はい」僕は頷く。
 そういう場を作ってしまう職場から離れるために、僕はバイトを辞めた。
 僕の脳裏にはあの金魚が泳いでいる。あのときの、赤い金魚。
「どれだけ努力しても勝つときは勝つし、負けるときは負ける。勝負というのは大変理不尽なものです。それは従来の関係を引き裂きかねないですから」
 僕らはカエルに別れを告げて薬局から立ち去った。
 寮に向かって二人で歩く間、僕も先輩も何も話さない。
「あのさ」と僕は言った。「勘違いしてほしくないんだ」
「わかってる」
「バイトを辞めることで距離を取るようなことになったけれど、元を辿ればそうじゃなくて、むしろその逆と言うか……」
「ねぇ、七瀬」僕は郡上先輩の顔を見る。「さっきの、変なカエルだったね」
先輩が微笑んで言った。
「いつも電車で見慣れた街ですけど、わからないことばかりですよ……」
「こういうのは麻雀に似てる」
「え?」
「普段見逃している牌が、ある時になると目に留まるようになる」
 確かにそうかもしれない、と思った。そして、僕は臆病だからこうした小さな変化を大事に育てていく必要があるのかもしれない。それが長く人付き合いをするコツなのだろうか。
「あの、いま決めたんですけど、これ……」
 僕は立ち止まって、ポケットからくしゃくしゃに丸まった求人ビラを取り出す。
「ここのバイトの面接、受けようと思います。だから、もしよかったら、またゼミ終わりとかに遊びにきてください」
 僕は返事を待たずに歩きだす。
 先輩はどんな顔をしているだろうか。空を見る。遠くの山並に隠れていた朝日が、もう少しだけ覗いていて眩しい。
 もうすっかり朝だ。僕はなんだか穏やかな気分になって、変に緊張していた自分がおかしくて笑いだしてしまう。先輩の笑い声もそれに重なった。
 僕らは、寮に向かってまた歩き出した。


執筆者sig.
麻雀結果Kabao 63800  ゲスト 57200 瀞昧幹 42700 sig. 36300
規定文字数2750文字(2750点差)
お題
kabao:早朝、雀荘帰りの大学生二人の百合。
始発前に歩いて帰る所。片方はタバコ好き。
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