そして彼女は、私が書いた手紙を丁寧にしまった。

そして彼女は、私が書いた手紙を丁寧にしまった。

【今週の日曜日さ、死んでみようかなって】

怠い午後。つまらない保健体育の授業を聞き流しながら、彼女から届いた手紙を開いてみたら、そんな言葉が書いてあった。隣の席に座る彼女の顔を、ゆっくりと見上げる。目が合った。私の視線に気付いた彼女は、真剣に授業を聞いている風な顔をしたまま、伏せた睫毛の数ミリだけで笑ってみせた。

【なにそれ。授業中に言うこと?】

その紙の余白に返事を書いて、彼女の机に置いた。
模範的な生徒の表情が貼り付いた、彼女の横顔を見る。瞼の上をいくつかの感情が素通りしていく。私はわざとらしく人差し指を動かして、話に付き合う用意があることを伝える。

【授業中じゃなきゃ、怒るでしょ】
【授業中でも怒るよ。いま、怒ってる】
【でも、声にも顔にも出せないでしょ。だからさ】
【わかった。書いて】

死ぬことっていうのは、とても個人的な行為だと思う。みんなが楽しく人生を生きているわけじゃないし、死に魅入られている人がみんな自分の人生を手折るわけじゃない。だから、一般化して何かを言うのは嫌いだ。すごく嫌い。それは、きっと、その死ぬとか辛いとかを遺伝子とか脳とかそういう詰まらない機関の誤動作だって言うような行為だったからだ。
でも。
でも、彼女個人についてのことだったら、言える。
彼女は、死ぬといったら死ぬ人間だ。凄く簡単に。
バスの定期券を買うぐらいの気持ちで、終わりを選べる人だ。

【何がいいと思う?】
【何がじゃわかんない】
【本当に?】
【痛いのはやめとけば】
【さすが。含蓄あるね】
【揶揄うなら終わりにするよ】
【本当に悩んでるの】
【老衰】
【やだー。ひとりで孤独に生きるの無理だし】
【なんで孤独】
【きっと恋もできない人生だもん。どうせ友達も居なくなる】
【私は?】
【あんたが幸せになる所だけは、絶対に見たくない】
【なにそれ。嫌われるようなことした?】
【してない。でも、嫌。適当に縁切る予定だったし】

チャットじゃなくて良かったな、とか思った。
アナログの温かみみたいな価値観は大嫌いだけど、今回ばかりは、そう思った。文字の形のひとつひとつ、文字が書かれる速さ、折れるシャーペンの音の全部が、書かれた言葉以上の何かを私に伝えているように思えた。

【じゃあ、幸せになんてならないよ。約束する】

新しい紙に書いて、渡す。
彼女が幸せになるなというなら、それでも良いと思った。
別に、幸せになりたくて生きてるわけじゃないし。
それを受け取った彼女は、わざと授業用のノートを開いた。
授業なんて聞いてないのに。絶対に興味なんて無い、ヒトの発生についての記述をゆっくりとノートに書き写していく。
そうやって、もったいつけてから、ゆっくりと私が渡した手紙を開いた。開いてすぐ閉じて、それを私に突き返してきた。

「名前、書いて」
「は?」
「名前、書いて。ここに。サイン」

微温ぬるい教室と、授業に、細波のような小さな異物。先生と目が合う。クラスメイトたちと目が合う。私が手で小さく謝るような合図をすると、先生はすぐに授業に戻る。周りのクラスメイトも、些細な言い争いか何かだと思ったのだろう。すぐに興味を失って退屈な授業のパーツに戻っていく。
渡されたペンで、「約束する」の文字の下に、自分の名前を丁寧に書き込む。彼女にそれを渡すと、嬉しそうな顔をしてそれを胸ポケットにしまった。

【なんなの。いきなり】
【良いじゃん。それより、ほんと? 約束】
【幸せじゃなかったら、一緒に居てくれるの?】
【うん。私が死ぬまでは】
【あと三日しか無いじゃん】
【そうだった】
【でも、それでも良いや。それでも、その方が良いから、約束する】
【嘘だ。しばらくしたら全部忘れて幸せになるんでしょ】
【そんなことない。別に興味ないし、幸せとかそういうの】
【恋人とか結婚とかは?】

チョークがぽりっと、骨折するみたいな音を立てて折れる。
なるほど。模範的な男女の、模範的な繁殖と人生が大写しされた黒板をみて、大体の流れを理解した。私は、理解したことを彼女に悟られないように、視線を背けた。

【無いよ。興味無い】
【興味なくても、みんな普通って奴に流されるでしょ】
【流されないよ。ちゃんと不幸でいてあげる】
【不幸とは言ってない。不幸にはなって欲しくない】
【なにそれ】
【不幸になることと、幸せにならないことは一緒じゃない】
【難しくない? そこに差ある?】
【ある。私には、すごくある】
【じゃあ、決めてよ。私の人生、それで良いから】
【投げやり】
【本気だよ】
【そんな人生棄てるみたいなこと】
【誰相手にでも棄てるわけじゃないよ】
【じゃあ、何言っても怒らない?】
【怒っても、全部許すよ】

右の足首を捻って、解す。
こういう話をしていると、古傷が痛む気がした。

【一緒に死んでくれる?】
【無理】
【悩むそぶりぐらいみせてよ】
【約束を破ることになる】
【約束って?】
【不幸でいるって約束】
【死ぬんだよ?】
【あなたと一緒に死んだら、幸せになっちゃう】

言葉にしちゃいけないと思っていた感情が、心を通らずに文字に成って行くような気がしていた。なにか、とんでもないことを書いているような不安だけあった。

【からかわないで】
【本気だよ。揶揄ってない】
【なんでそれが幸せなの】
【そっちは違うの?】
【違わないけど、そっちもそうなの?】
【そうって?】
【知らない。もう良い】

舌打ちが聞こえる。
私は、聞こえるように笑ってやった。
怒ったみたいに、彼女はシャープペンシルを叩きつけるように次の手紙を書き始める。

【じゃあさ、ねぇ。なんで去年、独りで死のうとしたの】
【飛び降り】
【方法の話じゃない】
【面倒くさくなったから】

足が痛む。いろんな物に申し訳ないぐらい綺麗に治った足。
粗末にしてやろうと思って擲って、結局、手元に残った命。
一年前の私は、絶対に越えられない壁があると思っていた。
その壁を見ているのが嫌で、目を背けてるうちに、落ちてしまったのだ。そうやって飛び降りてみて、まぁ、死に損なって、生き延びてみて。
不思議な物で。壁の向こうにあると思った物が、足元に落ちていたみたいだったし、そもそも、壁だと思っていたものは、自分の臆病な猜疑心を飼い慣らすための諦観の檻だった。

【答えになってない。なんで誘ってくれなかったの】
【一緒に死んでって?】
【うん。】
【断られたら生きてけないじゃない】
【死ぬのに?】
【答え見たくないのに、蓋を開けるのは馬鹿でしょ】
【最低。弱虫。クソザコ】

私は、何通か前の紙を取り出す。
それから、彼女が書いた「適当に縁切る予定だったし」の文字にマルを付けて、【はい、鏡】と書いて渡した。

くそっ、って彼女が言って、それからシャープペンシルで私の手を突いてくる。それを躱して、その手を握る。いつもの真っ白な手じゃ無くて、少しだけ、赤くなった手。

【嘘。私が死んだあとで、適当に幸せになって欲しかった】

その手に、手紙を乗せて、離す。
呼んだら、来てくれる自覚は、うん。あった気がする。
来てくれてたら、私は上手に死ねていただろうか。

【良いんだ? 私が幸せになって】
【良いよ。私は別に嫉妬とか、柄じゃないし】
【しなよ。嫉妬】
【やだよ。めんどい】
【してよ。嫉妬】
【なんで】
【埋め合わせ】
【なんで】
【心配したんだよ。言わなかったけど】
【言えし】
【相談もしてくれなかったのに、できないよ】
【それは、ごめん】

相談したのに、止められなかったなんて事になったら、傷つけると思った。「全然そんなそぶりなくて」なんて、インタビューとかで笑顔で言ってくれれば良いって思っていたのだ。

【退院してからも理由、聞けなかった。聞く資格無いって】
【話す資格とか無いと思ってたから】
【なんで】
【うーん。理由が先に死んじゃったから】
【わかるように書いて】
【そのまんま。一回死んでみたら、死にたくないなって思った。思ってたより痛かったし、思ったよりみんな泣いてたし、思ったより普通だった】

あるいは、自分自身に愛想尽かされたのかもしれない。
もう、あんたみたいに自分を大事にしない奴とは居られない。そんな風に言われたんじゃないかって思っている。
助かったのは自分の半分だけで、半分はちゃんと死んじゃった。それぐらい、なんていうか、他人事みたいな気持ちになってしまった。
だから、適当に感動的な理由を吹聴することもできたし、雑に泣けるような理由をでっちあげる事もできた。先生も親も泣きながら「わかった」とか「がんばったね」とか言ってたし、そっか、こんな話題でも、私はちゃんと嘘つけるんだなって思ったりもした。
だから、彼女にだけは、何も言いたくなかった。何かを言葉にした瞬間に、本当に、もう不可逆にダメになっちゃいそうだったから。

【それって、罪悪感で身動きとれてないだけじゃん】

夏の午後の微熱い風ぬるが吹いた。彼女の前髪が揺れて、それから、睫毛が揺れて、ほとんど白紙のノートの上に涙が落ちた。
ほら、だから、厭だったんだ。私なんかの小さな悩みで、彼女を泣かせたりしたくなかったから。手紙を書いた私は、シャープペンシルで、彼女のてのひらを軽くつつく。

【ごめん】
【悪くないんだから謝るなし】
【他の人には言えたんだけど、言えなかった】
【そういう感じの「特別」はイヤ。覚えてて】
【わかった】
【でも特別だったのは、いやじゃない】
【よかった】
【許すから、信じて。何言われても、全部許すから】
【怒らないじゃないんだ】
【そりゃ、怒るときは怒るよ。嘘つきたくない】
【安心した】
【ねえ、まだ生きていたくない?】
【そうだね。少し】

面倒なこと多いし。
良いことは、どんどん目減りして、色褪せて行くし。
きれいなまま、いられないなら、それはつまらないことだ。

つまらないことを、ずっと、厭だと思っていた。

こんな平凡、こんな卑屈、こんな怠惰、全部脱ぎ捨ててしまえば、違う何かになれるんじゃないかって、そんなことばっかり思っていた。自分っていう入れ物に、厭きてしまっていた。

【つまらないから、人生】

違うな。人生じゃない。私がつまらないんだ。
楽しく生きる努力をしてこなかったから、ダメなんだ。

【つまらないの、嫌い?】
【嫌い。刹那的な快楽主義者だから】
【それなのに、幸せにならない約束なんてして良いの?】
【良いよ。それは良い】

不幸せでいることを、彼女のために選択するというなら、それは楽しいことだと思った。どうせつまらない、どうせ不幸せな人生を送るだけだから、そこに、彼女との約束が在り続けるというなら、それは、悪い事じゃ無い。

【だったら、私の死に方決めて良いよ】
【は?】
【選んだ通りの死に方してあげる。今すぐ飛び降りろでも】
【頭おかしくなったの?】
【約束の対価。他人の人生を決めるのエンタメじゃない?】
【趣味悪いって】
【そっかー。それくらいしかお代になりそうなの無いんだけど】
【別に良いよ。もう貰ってるから】
【それじゃ私が気持ち良く死ねないよ】
【死ぬのは気持ち良くないよ】
【半分の人が偉そうに】
【ゼロの人よりは半分のほうが詳しい】
【五十歩百歩じゃん】
【そりゃ、そうだけど】
【いま生きてるんだから、昨日も明日もどうでもいいよ】
【だったら、私と】
【それはダメ。約束が崩れるんでしょ】
【なんでなの? 死ぬのなんで?】
【逆に、飛び降りたとき理由あった?】
【無かったと思う】

全部が厭で、全部がダメになった。
ただそれだけだ。きっかけとか理由とか、無かった。
あのときの気持ちが、私から安易な言葉を吐く自由を奪っていた。

【私の都合なんて考えないで。私は自分の都合で約束させたんだから。対等じゃないと、寂しいじゃん】
【なんでも良いの】
【なんでも良い。痛いのでも怖いのでも】

そこに、多分、嘘は無い。
最後に寄り添ってくれる物があれば、それは、きっと幸せだ。
瞬間の、燃えるような何かを胸に、それを永遠にするのは賢い選択なのかもしれない。ううん。わかんない。少なくても、それをバカだと言うことは、私にはできなかった。

でも、言いたいことがあった。
すごく酷いことかもしれないけど、言いたかった。

【じゃあ老衰】
【は? 怒るよ】
【絶対に孤独にしないって誓うから】
【安い言葉は嫌い】
【信じて】
【そっちの孤独と、私の孤独は意味が違う】
【一緒かもよ】
【違う。一緒なわけない】

私は、その手紙に返事を書かなかった。
それから、大声で、彼女の名前を叫んだ。
驚いている彼女の肩を掴んで、キスをした。長めに。

「は? いや、は? バカなの? 何を」
「はい、っていうこと」

周囲の熱があがる。誰かが何かを言う。まぁ、気にしない。どうせ些末なことだ。私と、私たちと、彼女のこと以外は、もうあの世に置いてきてしまったから。

「一緒だったでしょ?」

周りの声をねじ伏せるように、訊ねた。
彼女は、一度頭を抱えて崩れ落ちる。
それから、胸ポケットにしまった紙を取り出して、それをくしゃくしゃに丸めて、三回くらい殴りつけて、五等分ぐらいに破いてから、丁寧に畳んでカバンの中にしまった。

「まぁ、違うとは言わないけどさ」


執筆者kabao
麻雀結果瀞昧幹 71200  にゃおぽぬ 64800 Sig 43400 kabao 20600
規定文字数5060文字(1-4位 50600点差)
お題瀞昧幹:高校生。授業中、気になる子との手紙交換
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シナリオライター。デザイナー。 「影の森のアラディア」と「十二月のパスカ」をよろしく!

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