「ロク、お腹空いたね」
そうやって言葉にしたとき、私はロクの名前を思い出した。
ロクはふわふわの太い尻尾を振り回して、軽やかな雷のような声で返事をして、私の隣に座った。――そうだ。ロクは、お座りするのが上手だったから、「座る」という名前を貰ったんだ。お父様がつけた。私はそれを見た。うっすらと、春の寝雪の下から透ける新しい緑みたいに、うすく、お父様の顔を思い浮かべる。声は、どんなだったっけ。
「すっかり冬も終わったんだね。ロク。そろそろ初狩りの儀式の頃かな」
頬を撫でる緩やかな風。嗅いだことの無い新しい匂い。なんだか、ずっと、夢を見ていたような気がする。ずっとずっと、空を、大きな黒い烏が覆い尽くすような夢。いっぱいの星が落ちて、地面がすっかり燃え尽きてしまう夢。
お母様に夢の話をしたら、どんな唄を詠んでくださるだろう。黒い夢を見るのは止めなさいって叱られてしまうかもしれないけど、なんだか、私だけで溶かしてしまってはいけない夢のような気がする。
お母様のことを思い出したら、急に、体が寒いことも思い出した。私は、すっかり重くなった鮭革の靴を一回脱いで、なかの水を地面に返す。お父様が旅の無事を願ってと、直接編んでくださった服も、悲しいぐらいに濡れてしまっていた。早く焚き火でもして乾かそう――
「……どうしたの? ロク」
ロクは、急に立ち上がって、周りを見渡すと、昼間に太陽が隠れたみたいな蒼色の声を上げた。私はロクの背中をなでながら、その視線の先を追って、「あちゃぁ、困ったな」と言った。ロクは、私たちよりもよっぽど森の神様に近いから、きっと、私よりも先に、それに気づいたんだと思う。
「どこだろうねぇ。ここは」
断崖山、槍跳山、温泉山、遡川山、雪解山……。道に迷ったら、山の神様に聞けば良いとお父様に教わったのだけど、どこをみても、知っている山なんてひとつも無かった。眠っている間に流氷にでも乗って、知らない所に来てしまったのかも。
「あの、あおい山、大きいねぇ。ロク」
遠くにひとつだけ大きな山があった。お腹のあたりに大きな穴があいてるのが、とても痛そうな、おおきな、あおい、ユリネ貝みたいな形をした一人山。さぞお偉い神様なのだろうけど、私はその姿を見たのは初めてで、お父様から名前を教えて貰っていなかったから、なんて声を掛けていいのか、どっちに向かえば家につくのか、わからなかった。
「早く戻らないと、お父様もお母様もお困りになるよねぇ」
ロクに言う。ロクは低く声をだして、一緒に悩んでくれた。
私は、なにか、ムラのみんなと約束をしていたはずだったけど、それが思い出せない。みんな、泣いてて、それから、少なくなった食べ物を、みんな私に持たせてくれて。
なんで、食べ物がなかったんだっけ。――そう。冬が長かったんだ。いままでだったらとっくに雪解山の緑色の肌が見えて、川も流れを増して、初狩りの儀式をやっても良いぐらいのときまで、ずっとずっと雪が降った。船で南から来た人が、ふるさとの山神さまが怒ってしまわれたと言っていた。そのせいで、このあたりまで分厚い冬に呑まれてしまったんだと。誰かがお願いをしに行かないといけないって――。
「あ。そうだ。神さまにお渡しする食べ物が」
鮭のいちばん大きいのの干し肉と、大熊の肝とを燻した奴と、あとユリの根と、黒々した栗の実と。もちろん、つまみ食いしようなんてことは考えていない。水にすっかりぬれてしまったから、神さまにお供えするのに、悪くなってはいけないから、味をみてみるというだけで――
「うわぁ。だめだ……どうしよう……」
広げた鹿革の袋の中は、なんというか、とても、ひどい状態になっていた。こんなものを神さまが食べたら、怒って、きっとすごいことになってしまう。どうしよう。困ってしまった。冬眠あけの時期と言っても、さすがに私一人じゃあ、大熊をどうにかできるとは思えないし……。
そんな私の、困った顔をみて、ロクが悲しそうな声で何かを言って、横たわる。
「そんなことしないよ! ロクは家族なんだから。家族をお供えにするなんてできないよ。とにかく、ここがどのあたりなのかわかる人を探さないと。ロク、このあたりに誰か居ないかな?」
そう言うと、ロクは安心したみたいに立ち上がった。それから、私よりよっぽど神さまに近い鼻と耳で、何かを見つけたみたいだった。大きく尻尾を一回振ると、小走りで森のほうへ向かって歩いて行った。
**************
――森、って、いうのは間違いだったみたいだ。
ロクに導かれて歩いているけど、まわりに見えるのは不思議な物ばかりだった。ざらざらした、触ると暖かい、熔けない汚れ雪とか。大猪をかたどったみたいな、色とりどりの鉄の工芸とか。私には読めない文字の書かれた、族霊守の大柱があちこちにあって、そこから太い黒い糸が伸びていたりするから、きっと、すごい神さまのおられる土地なのだろうけど。
「……誰も居ない」
さっきまで、木だと思っていたのは岩をくり抜いた建物みたいだった。すごく上手に、まっすぐに切り出された石が、まるで樹神さまに並ぶぐらいの高さで詰まれた、やぐらがあちこちに立っていたのだ。でも、そのどれもが壊されていた。壊されて、あちこちから苔や樹木が生えていたから、遠くから見ると森に見えていたのだ。
「これも、山の神さまのお怒りのせいなのかな」
熔けない汚れ雪のあちこちには、どんぐりみたいな形の大岩があちこちに転がっていて、それがこの大樹みたいな石の櫓をぼろぼろにしてしまったみたいだった。もしかすると、山の神さまを怒らせても大丈夫なように、こうやって手間をかけて石で頑丈な櫓を建てたのかもしれない。
「謝って赦していただいた方が楽なのにねぇ」
あちこちの匂いをかいでいるロクに言うと、ロクはそれを切り上げて、明るい声で返事をした。ロクも、同じ気持ちみたいだ。
みんな、神さまのお怒りをおそれて、家を移してしまったのかもしれない。そうなると、人が居るところを見つけるのは大変だ。どこか高いところに登って、とりあえず大きな川を探さないと。
――だから、べつにこれは、大きな櫓を初めてみたから、登ってみたいとか、そういう、悪い気持ちではないのだ。本当だったら、別のムラの櫓に登ったらとても悪い事なんだけど、しょうがない。うん。これは言いつけを守るための、しょうがないことだ。
魔除けの挨拶をして、細い入り口から中に入る。さすが、立派な櫓だけあって、入るのも大変だった。私の背よりも大きな、熔けない薄い氷でできた壁がずっとあって、それを抜けると階段が何段も重なっていた。お父様は、西の果てのほうへ行くと、信じられないくらい人がいっぱいいて、梯ではなく階段でできた大きな櫓があると言っていたから、ひょっとしたらここは、その「西」という場所なのかもしれない。
登って、登って、登って、登ると、見晴らし台にたどり着く。あまりに高すぎて、とても疲れてしまった。ロクも心なしか、元気がなくて、下ばっかり見つめていた。
「すぐ川みつけるから、じっくり食べ物とか探そうね」
そう言って、辺りを見渡して、びっくりした。
見渡す限り、どこを見ても、ボロボロの、苔の生えた緑の櫓だらけだったのだ。
森はないし、里も、川もあるように見えない。いくら人が多いって言っても、こんなことができるものなのだろうか。あと、どこで食べ物を採っているんだろうか。……それとも、ここは神さまの世界なのだろうか。
そんなことを思ったときだった。
ロクが、大きな声で天に向かって叫んだ。
櫓の床が、周りの熔けない薄氷が、雷みたいな声を上げて震える。
そして、遠くに、真っ黒く、大きな、鳥が見えた。
夢で見た、黒い鳥だ。すごい高い所を飛ぶから、星にぶつかってしまうんだろう。次から次に、星を地面に落として、いろんなものを燃やしてしまうんだ。もしかしたら、この辺りは、あの、黒い鳥に焼かれてしまったのかもしれない。
「逃げないと!」
ロクに言う。ロクはうなずいて、二人で下を目指す。降りて、降りて、降りて。外に向かって階段を降りていく。そのなかで、お母様に聞いたおとぎ話を思い出していた。山の神さまには色々いて、ロクみたいなオオイヌの神さまもいれば、熊もいる。それでも一番強いのは、大きな鳥の神さまらしい。
あの、大きな、黒い、悲しそうな、怒ったような唸り声を上げている黒い鳥は、もしかしたら、西の果てを焼いた山の神さまなのかもしれない。
――だとしたら、戻って、儀式をして赦してもらわないと。
儀式。そう。お父様から教わっていたんだけど、何をするんだっけ……。
振り返ろうとしたそのとき。懐から、小刀が落ちた。
それは、天から降った星のかけらでできた、魔を切るための物だと、お父様が言っていた。
そう。旅にでるときに、お守りとして、お父様から頂いた物だ。たしか、お父様は舟で南から来た人から譲ってもらったと言っていた。
そうだ。思い出した。これで私は――。
そう。私は、言いつけを守らないと。ムラのみんなのために。
――戻らなきゃ。小刀を拾い上げて、階段のほうへ走ろうとしたとき。
まるで焚き火のなかの栗がはじけたみたいな大きな音がした。音の方をみると、そこにはロクぐらいの大きさの……何だろう。わからない。コウモリみたいな何かが、羽ばたきもしないで空中に浮かんでは、大きな音をたてながら、私たちの方へ飛んできた。
櫓に入り込んだよそのムラの人間に向けた呪いかもしれない。
走って逃げようにも、それはものすごい速さで私たちの所まで来て――。
響き渡ったのは、まるで、耳のなかに雷が落ちたみたいな音だった。
すこし遅れて、強い風が全身を押す。
それは突然あらわれた光だった。強い光は、あの、よくわからない、大きな音を立てるコウモリにぶつかると、そのまま、遠くまで吹き飛ばしてしまった。地面に落ちたコウモリは、もう浮かび上がるようには見えない。
「■■■!」
それが、人の声だっていうのは、わかった。
でも、聞いたことが無い言葉。すこし、南から来る人と似ているかもしれない。
ただ、とても怒っていることだけは、わかった。
「ごめんなさい、勝手に櫓に上がってしまって……」
慌てて、あやまるために声の方を向いて、固まった。
そこにいたのは、きっと、神さまだったからだ。
月の無い夜のように真っ黒な外套を着て、右手に、煙を出し続けて居る長い鉄の筒を――きっと、さっき、不思議な力で雷を呼び出して、あのコウモリを追い払った筒だ。まだ、白い煙がもうもうと立っている――持っていて。
それから、とてもとても美しい、太陽の色の嘴の装飾で顔を覆っていたのだ。
「■■■■? ■■――」
美しい嘴の神さまは、やっぱり聞いたことの無い言葉で何かをおっしゃっていた。
私は、うなだれて謝ることしかできなかった。それで困ってしまったのか、神さまは嘴の装飾に触れて、なんと、それを、取り外した。
『言葉――通じない? 海外からの避難民? ったく、港は何を。ったく。これ、機械翻訳なんだけど通じてる?? 通じてたら返事して』
驚いた。そこに居たのは、私と同じくらいの年の、とても透き通った女の子だった。
『どう? 言葉、変? とりあえずわかる?』
「わかります。ムラの櫓に勝手に入ってしまって、ごめんなさい」
『ムラ? 櫓? なにそれ。やっぱり翻訳バグってる? それよりアンタ、何語喋ってるわけ? 言語判定が不明瞭のままなんだけど――って、タイリクオオカミ??? なんでアンタ、タイリクオオカミなんて連れてるの。絶滅したでしょ? え? なにそれ』
「あの、助けていただいたお礼をしたいのですが、時間がなくて」
『わかってるわかってる。爆撃機から逃げてるんでしょ?』
「ばく?」
『あー、あの、黒い、空飛んでる奴』
「いいえ。あの、あの山の神さまに供え物をして赦してもらわないと」
『は? 山の神? 生け贄? なにそれ。アンタ、変なのはその格好だけにして。まぁ、いいや。とりあえず、シェルターまで案内するから。詳しい話と翻訳の調整はそこでするから。ついてきて』
「でも、あの、黒い神さまに止まっていただかないと、みんなが……」
私がそう言うと、美しい嘴の装飾の――仮面を取った女の子が、笑った。
『だったらついてきて。私たちはあの、クソ生意気な連合国の爆撃機を撃墜する作戦の行動中なんだから』
その言葉の意味はわからなかったけれど、私は、その美しい嘴の鳥に導かれることにした。
執筆者 | Kabao |
麻雀結果 | Sig. 71500 瀞昧幹 49900 巡宙艦ボンタ 46400 瀞昧幹 32200 |
規定文字数 | 3930文字(1→4位39300点差) |
お題 | Sig.:永久凍土層から目覚めた少女と その相棒の犬が人里をめざす話 |